2013/08/27 Tue

クレイジーフェアリー


解放されたい。心の底から、何もかも投げ捨てて、思いっきり自分をさらけ出したい。
それには顔が邪魔である。体が邪魔である。名前が邪魔である。
しがらみに囚われて後に引けなくなった、自分が邪魔である。

それらを全て覆い隠して、好きなだけ叫んで、好きなだけ暴れる。
そんなことができたら、どんなにすっきりするだろう!

だから私は「ふなっしー」になりたい。


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これは真っ当な意見として世間に聞き入れてもらえると思うんだけど、「上を見る姿勢」を日頃から意識することはぜひおすすめしたい。

道を歩く時に気持ち顎を上げて、遠くの信号を凝視する。前を歩く人の頭でも、飲み屋の看板でもいい。目線が固定するような目印を見て歩く。これだけでも背筋が伸びる。以前は3メートルくらい先の地面を見ながら歩いていたが、「二つ先の信号を見て歩く」を意識した途端、世界が広くなったような気がした。


それから暇潰しで携帯を弄る時も、なるべく目線を水平より下にしないよう心掛けている。肘を脇腹に寄せて脇を固定しながら操作するのは確かにラクで、電車内で観察しているとほぼ九割の人がそうして携帯を弄っている。

私はあえて目の高さに携帯を合わせて、首を曲げない角度で画面を見るようにしている。ちょうどカメラ機能で正面の景色を撮るような構え方。五分経った時に首の負担が全然違うから試してほしい。腕は多少疲れるものの、首を痛めるよりはだいぶマシなはず。


クズを自負して日陰を生きる私だが、小柄な割にあると評判の自慢の座高をフルに活かし、ピンと背骨を伸ばすように常に意識している。体の真ん中を巡る血液がスムーズに流れるように、街を歩く自分に少しでも誇りが持てるように。


姿勢が良いと少しだけ前向きになれる。視野が広がり、気持ちが引き締まる。体にも負担をかけないし、猫背よりは見栄えもいい。その上バストアップ効果もあるんじゃないかと睨んでいるが、どうやら個体差があるようで、残念ながら効果のほどは未確認である。

posted by あいだ at 00:03 | Comment(0) | 日常

2013/08/25 Sun

胃液も出なくなるまで


何となく適当な区切りで数字を付けてみたけれど、一体いくつまで続くんだろう。終着点が見えない。まぁ、行けるところまで。


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女性が一番美しく見える角度は上を向いている姿だと思う。上目遣いのことではない。どこか遠い天を仰ぎ、決して目線を地平線から下に落とさない。凛とした様が美しい。たとえローアングルで二重顎や鼻の穴が丸見えだろうが気にならない。

私もそうでありたい。上を向く姿が似合う女性でありたい。だから私は下を見ないために、自分が世界の底辺にいると思い込むことにしている。自分より下には何もない。上を見るしかない。「私より駄目なのなんてたくさんいるし」なんて、下を見て安心したくない。「みんなやってるから大丈夫」そう思って停滞したくない。人が言う分にはいい。そう思う自分が嫌になる。他の人はともかく、人類の中で私だけはこう思ってはいけない。

事実などどうでもよく、私は基本的にクズだと自分に言い聞かせている。これが正しいとも思っていない。むしろ愚かだと思う。結果的に自己暗示に追い詰められ俯く日が多いんだから。

卑屈な感情とも少し違う気がする。本心で自分をクズと思えるほど我侭な性格でもない。「どうせ私なんか」と人前で蔑んで、「そんなことないよォ」と言って欲しい訳でもない。親から頂いた命を貶すことは親を貶すのと同等だとも思う。あくまで精神的な向上のための一作用として、自分はクズであるという前提で思索する手法を取る時もある、その程度。心理学には詳しくないけど、たぶん専門用語で何とかっていう精神作用に該当するんじゃかいかと適当に思っている。

効果はあるのか?それは知らない。常に有意義で有効な道だけ選ぶほどできた人間じゃない。誰だってするだろ、このくらいの馬鹿なことは。
posted by あいだ at 20:06 | Comment(0) | 日常

2013/08/21 Wed

甘え下手で甘えっ子



正直に正直に書き連ねているつもりでも、読み直すとやはりどこか予防線を張ってしまっている。脚色せずに表現できないものか。


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自分がされて嫌なことはしない。
幼い頃の言付けは年々タブーを増やすだけのものだった。これをしたら嫌われる。あれをしたら誰かに迷惑がかかる。誰かがやった悪いことは、そのまま私がやってはいけないことリストに加えられる。

たとえば姉が母に甘え、母がそれを鬱陶しがったとする。それを見た私はもう母に甘えることはしなくなる。母が姉のことで愚痴を言い、私がその愚痴を聞くことを鬱陶しく感じたとする。私はもう人に愚痴を言うことはしなくなる。お金や物をねだることも早々にリストに加えられ、「定期を買うからお金ちょうだい」の一言が言えず、本来なら親に投資してもらっても良いようなものを泣く泣く自腹で払っていた。教科書代や、一ミリも読まない新聞の集金でさえも。私利私欲、遊ぶお金なら尚更だった。バイトの収入もない頃は辛かった。

甘えたり愚痴を言ったりしない、控えめで謙虚な私を人は褒める。
えらいね、大人だね。
耳が腐るほど聞かされた。


でも、これって私にとっていいことなの?
全部我慢してそれで褒めてもらえたら、幸せ?


幸せの定義は人それぞれだ。褒められて嬉しいと素直に思える性格だったら幸せだった。だけど、「私だってたまには甘えたいし、愚痴の一つも言いたいよ」、そう思ってる以上、表面と内面のギャップが解消されない以上は、それで良しと喜べない。そして、「その本音を誰かに打ち明けることが甘え」だと感じている以上は、この本心を人前に晒すこともしなくなる。


甘えるのが極端に下手になってしまったのは、幼い頃の何気ない言付けがルーツなんじゃないか。そんな仮説に寄せて振り返ってみた。意味やメリットはとくにない。身内を恨んでいるわけでもない。人格形成に影響を与える要素に対する好奇心と、腐った性根をどうにかして他人のせいにしたい間違った甘え方。そんな風に捉えてほしい。無機質なサンプルデータとして捉えてほしい。一切の感情は不要。
posted by あいだ at 22:16 | Comment(0) | 日常

2013/08/20 Tue

正しい道の外れ方



三つ子の魂百までとはよく言ったもので、自分を構成している要素を分解して分析すると、案外そのルーツは古くまで遡ったりする。


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相手がされて嫌なことはしない。
自分がされて嫌なことは人にしない。
赤信号は渡らない。

きっと誰もが幼い頃に一度は言われたことがあるはずの決まり文句。私はこれをどこまでも忠実に守ろうとしてきたように思う。電車に乗ると必ず座席の上で靴を脱いで車窓の景色に夢中になっていた頃から、座席に座ると必ずパンプスを半分脱いで足の裏を換気するのが癖になっている、現在に至るまで。

ルールに逆らうことがステータスになる、そんな社会が形成されがちな青春期でさえ人並み以上に真面目だった。でも根っからの性格とか正義感とかそんなのじゃない。ルールに反抗するのがカッコいいと感じる、それが十代の「普通」なら、私はそれに逆らいたい。裏の裏をかいて、私なりの反抗心として、あえて真面目になるという斬新な発想で不器用な青春時代を過ごした。

結果的に、そんな自分に酔っていた面ないわけではないから、ワイシャツのボタンを二つ開けたり校則違反のカーディガンを腰に巻いたりする、どこにでもいる健全な反抗期と何ら変わりはない。どちらかといえば、「クールで知的でいつも気怠げなラノベの主人公」に憧れる中二男子、みたいな普通さだった。我ながらめんどうくさい。

少し脱線したが、そんな複雑な乙女心など当然見えやしないから周りからすれば普通に真面目でイイ子ちゃんだった。叱られたことはほとんどない。相手がされて嫌なことはしない、自分がされて嫌なことは人にしない。周りに叱られている子がいれば「自分はそうしないようにしよう」と学習する。仲良くなれないタイプの子を見れば、「やだやだ。私はああなりたくないわ」と、そんな具合に、「人間の嫌な部分」を身に付けまいと努力していた。

理屈で言えば、それを貫けば間違いなく聖人のような素晴らしい人間に育つはずだ。
でもそうはならなかった。

表面上はなれたかもしれない。未だに褒められることの方が多い。でも私の内面は納得していない。褒められた自分を疑ってしまう。あなたは優しいからそう言うけど、私は褒めるに値する生き物ではない。私の真面目な行動は反骨精神から生じたもの。善意や誠意ではない。表面と内面とのギャップは日に日に肥大し、人から見えている自分と本心の乖離はさらに悪化する。

聖人のような行動をすればするほど、内面は腐っていく。
posted by あいだ at 22:12 | Comment(0) | 日常

2013/08/10 Sat

部品の一部としてじゃなく、人間らしく必要とされたい


人間が人間であるのは言葉があるからだ。それは他の生き物との大きな違い。言葉があるから歴史の教科書も未来のスケジュールも作れる。

でも現在、今もこうして無限に湧き続ける心や思考や感覚をそのまま言葉に変えるのは、とても難しいことだと思う。その限界に挑戦したい。限りなく丸裸なままの心を言葉にしておきたい。


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一体どこで道を間違えたんだろう。何がいけなかったんだろう。誰のせいでこうなったんだろう。

いつもそうだ。まるで育った環境が悪かったと言わんがばかりに過去を分析して文句垂れるだけで、この先どうすれば直るのかなど改善を図ろうともせず、ずるずると引きずってるだけだ。

気を遣って会話を振ってくれる優しい人もいる。何も話さないとわかっていても輪の中には入れてくれる。ますます恥ずかしくて消えたくなる。一度そんな印象を持たれたことを悟ってしまうと、何をしても無理してるように見られてると感じてしまって、明るく振る舞うこともしなくなる。


仮にも二十歳を超えた人間がこんな子供染みたことを吐露するなどみっともない。そこを無理してでも笑顔を作って社交的に付き合うのが大人のあるべき姿なんだろう。大人と言わずとも、何らかの集団に属してる人間の義務なんだろう。老若男女問わず普通にできることなんだろう。

こういう言い方をすると、なんだか「普通のことができないワタシ」なんて悲劇のヒロインを演じてるみたいで嫌気が差す。できないじゃなくて、やらない・努力しないなのに。ますます自分の人間的な醜さを実感する。


飲み込みが早く仕事は丁寧、要求した以上の結果を返してくれる。よくできる新人だと、働きぶりは認めてもらえているように感じる。わからないことはすぐ質問する、何かあってもなくても逐一報告する、気付いたことは提案する。このくらいの業務上のコミュニケーションには支障ない。でも雑談となると途端にダメになる。

逆ならまだ良かった。仕事はてんでダメだけどとにかく明るくて楽しい。そんな風に思われたかった。


普通はこんなことを馬鹿正直に書くもんじゃないんだろうな。いくら馬鹿でも正直な気持ちには変わりなく、何一つ自分を偽らず醜いまま残しておける場所などここぐらいしか知らないから、ただ記しておきたくなった。
posted by あいだ at 19:44 | Comment(4) | 日常

2013/08/09 Fri

公約数になれない、大多数の素数のひとつ


夏休みの小学生を見習って日記を書こう。続くかどうかはわからない。見習うっていっても、最近の小学生って夏休み中に三日ぐらいしかラジオ体操やらないのな?毎日やればいいのにな?まぁその環境を与えたのは、ゆとり世代でも何でもないおばちゃん達なわけだな。

とにかく日記だ。小学生に戻ったつもりで、日記を書こう。


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検索欄に会社名を入れると「ブラック」というキーワードを自動で付加してくれる便利な時代。某掲示板での評判も悪く、社員のクチコミも悲惨。そんな会社に勤めて早四ヶ月。新卒の中で最も遅く配属され一ヶ月経過した今、ここは天国かと思うほど、恵まれた環境にいる。

自宅からの距離は遠く朝は少し辛いものの、職場に着けばこっちのもので、充実した環境の中で18時まで過ごせる。毎日怒鳴られるくらいの厳しい生活を覚悟していたのに、最初からこんなに快適な思いをしていいものかと不安になるほどみんな優しい。今の環境で唯一の不満といえば、こんな私なんかにはもったいないくらいに何もかもが優しすぎることだ。職場の人間関係も良好。食堂のおばちゃんや、保険の勧誘に来てるお姉さんとさえ仲良くなれそうなほど、いい人ばかり。すれ違う人みんな優しい。建物も新築でトイレに住めるくらい綺麗で、社員食堂は毎日ワンコインより少ない出費でご馳走にありつける。


そんな文句なしの環境にいながら、どこか馴染めずにいる。私ほど人とのコミュニケーションが下手な人間はいないんじゃかいかと思う。少なくとも私はお会いしたことがない。一対一だと話せるが三人以上になると話に入れない、何とか割り込もうとすると必ず誰かと被ってなあなあになったり沈黙になったりする、奇数で道を歩けば自然と一人で後ろを歩いている、その割に、仲の良い一部の人の前では調子に乗る。

記憶を辿ると、小学校高学年頃から既にこうだった。通信簿にはよく「大人しい」「休み時間はごく一部の子と教室で過ごしてる」「もっと元気に遊んで欲しい」とか書かれていたし、小学生の頃の「無表情」と「無口」が23年間で唯一男の子に付けてもらったあだ名。みんなはわかってないけど私はどこにでもいるような子とは違う、アホみたいに遊んだりなんてできないし、オトナだからもっと複雑なの。普通の子には理解できないのよ。わかる人だけわかればいいの。人と違う私すごいでしょ?ま、みんなにはわからないだろうけど!

それが個性だと勘違いしていた。
posted by あいだ at 22:22 | Comment(0) | 日常