2013/08/20 Tue

正しい道の外れ方



三つ子の魂百までとはよく言ったもので、自分を構成している要素を分解して分析すると、案外そのルーツは古くまで遡ったりする。


***






相手がされて嫌なことはしない。
自分がされて嫌なことは人にしない。
赤信号は渡らない。

きっと誰もが幼い頃に一度は言われたことがあるはずの決まり文句。私はこれをどこまでも忠実に守ろうとしてきたように思う。電車に乗ると必ず座席の上で靴を脱いで車窓の景色に夢中になっていた頃から、座席に座ると必ずパンプスを半分脱いで足の裏を換気するのが癖になっている、現在に至るまで。

ルールに逆らうことがステータスになる、そんな社会が形成されがちな青春期でさえ人並み以上に真面目だった。でも根っからの性格とか正義感とかそんなのじゃない。ルールに反抗するのがカッコいいと感じる、それが十代の「普通」なら、私はそれに逆らいたい。裏の裏をかいて、私なりの反抗心として、あえて真面目になるという斬新な発想で不器用な青春時代を過ごした。

結果的に、そんな自分に酔っていた面ないわけではないから、ワイシャツのボタンを二つ開けたり校則違反のカーディガンを腰に巻いたりする、どこにでもいる健全な反抗期と何ら変わりはない。どちらかといえば、「クールで知的でいつも気怠げなラノベの主人公」に憧れる中二男子、みたいな普通さだった。我ながらめんどうくさい。

少し脱線したが、そんな複雑な乙女心など当然見えやしないから周りからすれば普通に真面目でイイ子ちゃんだった。叱られたことはほとんどない。相手がされて嫌なことはしない、自分がされて嫌なことは人にしない。周りに叱られている子がいれば「自分はそうしないようにしよう」と学習する。仲良くなれないタイプの子を見れば、「やだやだ。私はああなりたくないわ」と、そんな具合に、「人間の嫌な部分」を身に付けまいと努力していた。

理屈で言えば、それを貫けば間違いなく聖人のような素晴らしい人間に育つはずだ。
でもそうはならなかった。

表面上はなれたかもしれない。未だに褒められることの方が多い。でも私の内面は納得していない。褒められた自分を疑ってしまう。あなたは優しいからそう言うけど、私は褒めるに値する生き物ではない。私の真面目な行動は反骨精神から生じたもの。善意や誠意ではない。表面と内面とのギャップは日に日に肥大し、人から見えている自分と本心の乖離はさらに悪化する。

聖人のような行動をすればするほど、内面は腐っていく。
posted by あいだ at 22:12 | Comment(0) | 日常
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: